「おんな城主 直虎」第33回 感想めも

個人の勝手な解釈ですのであしからず。
半分くらいは政次となつについてです。

政次にとってのなつの存在

川名の隠し里での場面。
「休んでおれ。疲れたであろう」
「義兄上こそ、お疲れにございましょう」
いつも相手を思いやっているふたりの様子がこの短い会話にも表れているよう。

あと一歩のところで近藤にはめられ、直虎一人を城に残し、気が気ではないはずなのに、妙に明るい雰囲気で急に川名のお祭りの話を始める政次。なつに心配かけまいと気遣っているのかなと。
「さんざんな」と笑うなつに、政次も「さんざんだ」と、今までなつに見せたことがないような屈託のない笑顔を見せる。こんな追い込まれた状況でも、なつと話していると自分はこんなにも自然に笑えるのかと少しハッとしたような感じで。

この時に、政次は改めてなつの大切さを身にしみて感じたのかも。事が成っていれば、もっとなつにきちんと向き合って愛せるようになったかもしれないと。あったかもしれない幸せな未来が想像できてしまった。でも、それはもうきっと実現しない。

ふいになつに膝枕する政次。もうなつとこうして過ごせるのもこれが最後だから、少しは夫婦らしいことがしてみたくなったのか、それとも、自分を慕ってくれたなつに報いるために最後に夫婦らしい時間を作ってあげたのかったのか。いずれにせよ、政次がそうしたかったからしたこと。
前回「かたちばかり」と求婚されたのに、当たり前のように膝枕してくる政次に動揺しつつも、やっぱり嬉しそうななつ。

検地の思い出話が意味するもの

政次は横になったまま、川名の隠し里にまつわる思い出話というより、検地の時の直親の愚痴をこぼす。当時の直親と次郎様の無自覚な発言や振る舞いは政次を深く傷付けていただろうし、それを誰にも言えずわかってもらえず、ずっと政次の心にひっかかっていたこと。
そんな心の古傷を素直に「ひどくはないか?」と笑い話として話せて、「はい」と笑ってくれるなつがいる。それだけで政次は救われたと思う。「ひどくはない?」の時に体起こしちゃうところがなんだか子供っぼくて可愛い。

「しかし、それでよかったのかもしれぬ」は、今こうして井伊の危機に皆が隠し里に逃げ込み助かっているのは、直親の無茶振りに従って隠し里を守り抜いたからこそで、幼なじみでもある直親に罪をなすりつけられ、自分は辛い思いをしたけど、ああしてよかったんだと実感したのだと思う。
「なつが笑う話となった」は、井伊の皆が助かり、なつも助けられ、今こうしてなつが笑ってくれたからもうそれでいいんだよと、なつを喜ばせるために言ったことではないかなと。

政次が普段言わないようなちょっと甘いことを言ったかと思ったら、察しのいいなつはここでハッとする。自分が犠牲となり結果的に井伊の皆が救われ、それでよかったと笑う政次と、先刻「なんとか致します」と言った政次が結び付き、「なんとか」がどういうことなのか気付いてしまったから。

この検地の思い出話は、ただの愚痴のように見えて、話の一連の流れが“小野の本懐”とはどういうことなのかを具体的な一例として表しているのではないかと。この後、牢で龍雲丸に語ることにもそのまま通じている。
「忌み嫌われ井伊の仇となる」
「それこそが小野の本懐」
自らが犠牲となり井伊を救うこと、それが政次の本懐であることを、ずっと近くで見てきたなつは知っていたのだと思います。

碁石となつ

政次の袖から出てきた白い碁石を、自分の袖に持っていたなつ。よく考えると、昨晩、城から逃げて来る際に政次にかなり急かされていた中で、なつはわざわざこの碁石を持って来ていたわけで。どこまでも義兄思い。しのだったら確実に捨ててると思う(笑)
碁石を受け取った政次は、慈しむようにじーっと白い碁石を見つめていて。自分の膝の上で、明らかにおとわのことを想っている政次の目を、そっと手で隠すなつ。

「今はなしです。今“だけ”は。」
なつが初めて見せた嫉妬心。それでも、もう政次といられるのは最後かもしれない場面でさえも、政次のおとわへの想いを決して蔑ろにはせず、政次にとって自分は全てではなくていいという謙虚さがなつらしい。ノベライズでは政次の目を隠すのではなく、なつが碁石を隠すように政次の手を自分の手で隠すとなっていて、他の女は見てほしくないような切実な感じだったけど、ドラマでは思いの外カラッとした言い方なのがよかった。政次を困らせないようにという心遣いかな。膝枕されている間も、政次になるべく触れないように気を遣っている感じで。呼び方も相変わらず「義兄上」で、「かたちばかり」を一生懸命守ってるのかなと。

なつは自分の想いが届かないからといって誰かを恨んだりせず、直虎に対して嫌な気持ちがないところ、何よりも政次の気持ちを大切に思っているところが素敵。同じように政次も、龍雲丸に嫉妬はしても恨んだりしない、むしろ人としては認めてる。例え自分が報われなくても、好きな人の想いを尊重し、その人の望むとおりにしてあげたい、支えになりたいと思ってしまう性分は、なつと政次はよく似ていると思います。

政次の想いの変化

32話では、政次は「かたちばかり」と言い、なつはそれを承知しながらも政次に寄りかかるのに対して、33話では、なつは「かたちばかり」を意識してるけど、政次は膝枕をするという、構図が逆転しているような感じ。
32話の段階では、政次からなつへの家族以上の愛情は読み取れなかったけど、33話の「なつが笑う話となった」と、特に最後の「はい」には、これまで以上になつへの愛しさが滲み出ているように感じました。それが、なつの想いに報いるための優しさだったとしても、おとわへのそれとは違う種類の、そばにいてほしい、大切に思っているという政次の真心は、なつに伝わったのではないかなと、勝手に思っています。32話よりずっと政次がなつの想いに応えてあげているように見えました。

ノベライズの印象

この膝枕の場面、ノベライズと台詞はほぼ同じなのですが、文字で読んだ時はもっとしんみりした印象を勝手に受けておりました。膝枕をして直親の愚痴をこぼしたのは、政次が死を覚悟して子供に返ったようなものだったのではないかと思っていました。妻に甘えているというよりは、母に甘えているように感じてしまって。なつに「今はなしです」と言われて「はい」と答える政次が、母と話してる子供みたいだなと思ったり。政次がなつに敬語を使うのも今までなかった気がして。ノベライズでは、政次の「はい」の後に「これが二人で過ごす、最後のひとときになるかもしれぬ。政次は、なつに優しくほほえんだ。」という地の文があり、これが最後だから優しさであんなふうに微笑んだともとれるかなと思います。

ドラマではとても明るい雰囲気で。おそらく政次もなつもお互いこれが最後になることを理解していながらも、今この瞬間を笑顔で過ごせたのは、相手を思いやれる聡明な二人だったからこそだと思います、政次はなつに心配をかけたくないから、これから自分がしようとしてることは言わずに優しい笑顔を向けるし、なつは政次を困らせたくないから全てを察した上で「行かないで」なんて泣いて引き止めたりしない。ただただ微笑み合う、どこまでも美しくて切ない月のようなふたり。

政次となつのシーンの意味

直虎と政次の最後を考えると、対比がすごい…。
32話や33話でのなつとのシーンは必要だったんだろうかと、ノベライズを読んだ時は正直疑問だったのですが……。

33話でなつを愛おしそうに見つめる政次を見ても、政次が女性としてなつを選んだみたいな解釈は私にはできなくて。やはりなつは心安らげる家族の象徴のように考えています。義妹以上妻未満くらいの関係であってほしい。(ただの願望)

政次がおとわと井伊のためだけに生きていたわけではなく、そばにいてくれた家族も大切にしていたという描写があることで、政次の人物像がより立体的になるのかなと。そうすることで、自らを犠牲にしてまで守りたかった井伊の意味もより大きくなるというか。政次が守りたかったもののひとつなんだと思います。
話が逸れますが、奥山殿を斬ってしまい、なつに助けてもらった時、「いつか、この礼は必ず」と言った政次に、なつは「亥之助をお守りさえ頂ければ」と返していた。その約束を守るためにも、政次は井伊を守りたかったんだなと。

また、なつとの時間があることで政次自身がおとわへの想いを改めて強く感じてしまっているところがあると思います。なつにはちょっと残酷だけど…。政次自身自覚しきれていなかった自分の中にある想いが、他の場所に行くことではっきりと浮き彫りになるような。
なつとの穏やかで切ない理性的な関係と、直虎との激しく情熱的な魂の繋がりが対照的で、後者の性愛を越えた壮大さや尋常じゃなさがより際立つ気がします。

なつに求婚してるのに切々とおとわへの愛を語り出したり、なつに膝枕しながらおとわに想いを馳せたり、おとわのことになるとどうしようもなく感情がこぼれ出てしまう不器用な政次が個人的には大好きなので、そんな政次が見れたという意味でも、なつとのシーンはあってよかったのかなと思います。

政虎と政なつ

余談ですが、個人的には政虎も政なつも両方好き(でも僅差で政虎がリード)なので、この膝枕のシーンを見ると私の中の政なつ派と政虎派が暴れ出してちょっと疲れます(笑) すごく素敵なシーンで大好きなのに、胸がざわざわする……。
正直、ノベライズを読んだ時点では、政次の死以上になつへの求婚と膝枕がショックで受け入れるのが難しかったけど、ずーっと残っていたもやもやが今ほとんどなくなったのは、やはりドラマの政次の最期があの完璧な形だったから。あのおかげで色々とすっきりしたし、「おんな城主 直虎」がより一層好きになりました。
それでも、いまだにざわざわ感が完全にゼロにはならないのは、もう感情はコントロールできるものではないから致し方ないんだ!と思うことにします。

牢での政次と直虎

牢に政次が連れて来られ、直虎が「共に徳川につくと話をしたではないか!共にしの殿を差し出し、共に……」と言うと、ぐいっと直虎に近寄り「信じておられたとはおめでたい」と言いながら真っ直ぐに直虎の目を見る政次。直虎が喋りだしても目は離さないまま。これは、もうひとつの「信じろ、おとわ」ということか。台詞もそうだけど、何よりも目がそう語ってる。

龍雲丸

牢にいる政次を助けに来てくれた時「井伊のために誰よりも駆けずり回ってきたのはあんたじゃねえか」と言ってくれたのが嬉しかった。政次も龍雲丸のことを認めていたけど、龍雲丸もまた政次のことちゃんと見ていてくれてわかってくれていたんだなと。

みなさん言われている通り「和尚様がおるし、…………おぬしもおるではないか」の政次の間の取り方は本当に趣深い。龍雲丸を認めてるからこそ言えることでもあるし、それゆえに滲み出る嫉妬。小野の本懐が理解できない龍雲丸に「分からずともよい」と言う政次はちょっと得意気で。初めて龍雲丸と対面した時に火鉢に足をかけたように、武家ではない龍雲丸へのマウンティングなんだろうけど、あの時とは違って信頼のこもった優しい瞳で龍雲丸を見つめる政次。この二人揃っての活躍をもう少し見ていたかったなぁ。

政次の前では「わかんねえわ、俺にゃあ」と言いながらも、ちゃんと政次の想いを汲み取って精一杯直虎に伝えてくれた龍雲丸。頭、ほんといいやつ。政次なき後は、直虎のことをつかず離れずの程よい距離感で支えてくれたらいいんだけどなぁ……。あんまり仲良くされるとときめくというより、もやもやしてしまうので。

直虎

牢での政次との会話を聞き、龍雲丸に「あの人はやりたくてやってんだよ!」と言われ「お前に何がわかる!」と突き放す直虎。31話で政次が子供を殺めた時も、龍雲丸が政次は恐らく後悔してないと言うと「頭に何がわかる!」と同じことを言っていた。政次のことを誰よりも知っているのは自分だと、政次との絆には例え龍雲丸であっても立ち入られたくないという、直虎の政次への異様なまでの特別な想いが感じられる。ふたりの絆に誰にも立ち入らせたくないという感覚は直虎の方が強かったのではないかと。

井戸端で碁石を見つめながら途方に暮れる直虎。和尚様に「これは一体……どういうことなのでしょうね。私に次の手を打てということなのでしょうか」と問いかける。城主として自分がなすべきことは何なのか。そして、一人になり「政次……我は……我は何をすればよい?今更……そなたに何を……」と涙を流す。龍雲丸から政次にとっての井伊とは自分のことだという真意を聞き、おとわとして政次に何ができるのか。

ちなみに、ノベライズでは碁石は33話では直虎の手元にはないので、前半の和尚様とのやり取りはありません。

翌日、和尚様が磔になる政次に引導を渡しに「行くか?」と声をかけると、冷たく感情のない声で「参ります」と答える直虎。「私が送ってやらねば」は、直虎として政次を奸臣にしきることで井伊を守り抜くこと、そして、「我が送ってやらねば」は、おとわとして政次の愛に報いることの決意だったのだと思います。この時の直虎の目が、12話の井戸端で直虎に「裏切るつもりで裏切ったのか……」と責められ「恨むなら直親を恨め」と言った時の政次のあの感情を失った目を思い出す。直虎は自分の心を殺さなければ政次のところには行けなかったのだと思う。

政次と直虎

検地の後、井戸端で直親に「井伊を守るのは、おとわのためだと思うてはもらえぬか?」と言われ、「お前のそういうところが好かぬ」と答えた政次。当時の政次は自分の役目とおとわのことは全く結び付いていない。それが、直親が殺され、直虎が城主となり、18話で和解した時から、政次が目指すところが、あの時直親が言っていたことと同じになっていたのかなと。井伊のために全てを捨てたおとわのために、井伊を守ると。

龍雲丸が助けに来ても自ら処刑されることを選んだ政次。政次が言うように自分が逃げたところでまた井伊が危険にさらされるというのは確かにその通りかもしれないけど、もはや井伊の誰もが政次の死は望んでいなかったはず。これまでどんなに危ない橋を渡ることになろうとも、おとわの好きなようにとしてきた政次が、最後ばかりはおとわが怒るのをわかっていながら、「それこそが小野の本懐」とおとわのため井伊のために自我を通す。次郎様が井伊のために還俗しないと決めた時も、直親を振り切ってカビた饅頭になることを自ら選んだ。たとえ愛する人がそれを望んでいなくとも、井伊のために清々しくその身を捧げる。ふたりの信念はずっと同じだったのだと思います。

牢で「信じろ、おとわ」と目で伝えたこと、直虎はちゃんと理解して、井伊のために政次をうまく使うという答えに辿り着いてくれた。そして、おとわとして自らの手で政次の胸を突くことで政次の想い応えてくれた。さらに、直虎自身が政次との絆に誰も触れさせたくないという強い気持ちがあったと思うので、あれは政次のためであり直虎自身の意思だったのではないかと思う。直虎は最後まで政次のことを一人の男としては見ていなかったかもしれないけど、政次と同じように色恋の愛情を越えた大きな大きな想いが、心の奥深く魂で繋がっている絆があったはず。

磔の場面は、放送直後からのみなさんの解釈が素晴らしくて、それにただただ感動するばかりで、自分ではうまく言葉にはできないんですが……。絶対に手に入らないと思っていたおとわが政次だけのものになった感じがして。これほど激しくて重くて苦しくて切なくて美しい愛があるのかと……。直虎に刺され、罵られた後の政次の笑顔が「いつも予想の斜め上をいく俺のおとわ」みたいな笑みだったというようなツイートをされている方がいて、「俺のおとわ」っていう表現が最高だなと。個人的に一番しっくりきた言葉でした。

小野としての本懐を遂げ、政次としても本望であったと思える最期は、最高のシーンだなと思うのですが、やはり何度見ても緊張するし辛い……でも、毎日手が勝手に再生ボタンを押してしまう。

「地獄へ落ちろ、小野但馬」
「地獄の底から、見届け……」
この台詞、1話でのおとわと鶴丸の最初の登場場面が“鬼ごっこ”で、鶴丸が鬼だったのも伏線になっていたのかなと。最初からああなる運命だったのかと思うと悲しすぎるけど、鶴丸の、政次の人生がより尊く思える。

辞世の句については、みなさんの解説や解釈にひたすら感動するばかりで。
ちなみにノベライズでは、辞世の句は33話の時点では出てきていません。

ノベライズ版の政次の最期

政次が磔になる日、井戸端での和尚様の引導を渡しに行くかという問いかけに直虎は無言のままで、「認めなければ、政次は死にはしない」という理論でその場から動かない。「……ならば、 せめて、ここで経でも読んでやってくれ」と言い去る和尚様。この台詞は、7話の検地の時、直親の味方をしてやってほしいと言いにきた次郎様に政次が言った「なんの覚悟もないのなら、寺で経でも読んでおれ」に通じているのかなと。ノベライズの直虎は政次に引導を渡す覚悟すらないのに対し、ドラマの直虎は政次と共に地獄にいく覚悟があった。

牢番に「出られよ」と言われた政次は通路を歩きながら、おとわと過ごしたこれまでの日々を振り返る。鬼ごっこでおとわが川の淵に飛び込んだこと、「鶴は何もしておらぬ」という言葉で救ってくれたこと、夫婦約束を反故にされたこと……裏切りを責められた日、お互いを利用しようと約束した日。囲碁で心の内を語り合った日々が一番幸せだったかもしれないと。そして、ドラマのラストシーンの陽の光の下での囲碁の約束を空想する……約1ページに渡っておとわとの思い出が綴られ、迷いも後悔もなく死出の旅に出る、という流れ。

ドラマ版が最高だったのは言うまでもないし、ドラマがあれで本当によかったのですが、ノベライズは政次の磔のシーンの描写は一切なく、おとわとの思い出を胸に旅立つ政次が清々しく爽やかに描かれていて、処刑という結末をこんなに美しく描くことができるんだなぁと思いました。
ノベライズとドラマの分かれ道となる直虎の「参ります」が、初見の衝撃を思い出して何度見てもゾクっとする。先がわからないハラハラ感が久々で。まるでその場にいるような感覚で見ることができました。